遙かなる想い

帰ると居候がふさいでた。
いや、中に入れてくれないとか壁の穴を修繕してたとかいうことでなくて
なんだかしょんぼりしていたのだ。
汗かきジジイの体育座りは寒気がしたけど、
元気なくしてどうしたのかなと思った。
すると「そこに座りなさい」と言われ、そのとおりにすると
湯飲みを二つ持ってきて日本酒を注いだ。
「飲めないよ。知ってるでしょ?」
「カッコだけでいいからつきあえ」
そう言って静かに、しかし一気に湯飲みを干した。
「…?」
なんだかわからなくて、ゆらゆら揺れる湯飲みの表面をぼんやり見てた。
居候は二杯目をなみなみと注ぐと、湯飲みを手の中で傾けたりしながら
「尊敬したり憧れたりする人はいるか?」と尋ねた。
「どうだろ?あんまり考えたりしたことないけど」
もてあそんでいた湯飲みを口に運び、居候は一気に飲み干した。
荒れるとやだなと思いながら、その姿を見るともなく見ていると
そんなぼくに向かってヤツはポツリとつぶやいた。
「世間を疑ってかかることは大事だが、時には手放しで心を寄せることも必要だ」



なんだか調子が違うなと思っていたのもつかの間、4杯目を空けた頃には
いつものからみ癖が始まり、6杯目で怒鳴り始め、10杯目は空けられることなく
ヤツは正体をなくしていびきをかき始めた。
なんだったんだろう?と思った。
こっそりヤツのブログを見て、ああと思った。
昭和の名大関の死に寄せた言葉をエントリーしていた。
大関貴ノ花はヤツのあこがれだったんだろうか?
ぼくらは二子山親方の姿とその家族の様子しか知らない。それもゴシップ的な。
二子山親方といえば常に寡黙な姿しか知らない。
離散していく家族の思いを受け止め、ひたすら耐えるような姿しか知らない。
あこがれを寄せる気持ちにはならないが、あの報道がその大きさを理解させる。
なにか動かしがたい、「父親」というものの姿をまざまざと感じる。
でも常に波立つ家庭というのには反目する。
波立つ気持ちを静める場所が家庭であってほしい。
家庭はそうであってほしい。
しばらく実家に帰っていなかったなと、ふと思った。