君住む街へ

課長が盲腸になった。
今朝から顔色が悪いなと思っていたのだが
10時を回ったあたりから四六のガマみたいに脂汗を額に浮かべはじめ
正午すぎて皆が昼食に出ようとした頃に「うー」といって卒倒してしまった。
みな血相を変えて駆け寄ると課長は手漉き和紙のような顔色で
「あうあう」いっていた。
これは一大事と江戸っ子の山田は110番に電話した。
電話口でそれは違いますねとたしなめられ
改めて119番へ電話し救急車を呼んだ。
その間も課長はうーうー唸っていたが、
そのうちもっと派手なウーウーが彼方から響いてきた。
もうすぐ救急車が到着しますよと課長に告げると「大ごとにしやがって」と
悪態をついたが、その語気の弱々しさに平素の勢いがなく
ぼくらはただ口をつぐんで見守るしかなかった。
やがて担架を携えて二人の救急隊員がオフィスに駆け込んできた。
床に伏している課長の腕を取って脈を診たり、呼吸を確認したりしながら
「大丈夫ですか」と、どう見ても大丈夫じゃない人に無下な質問をして
「大丈夫です」課長も真っ赤な嘘で虚勢を張った。
頑として担架に乗ることを拒否したが、我々の指示に従ってくださいと
毅然とした声で救急隊員に諭され、課長は担架で運ばれた。
廊下で白衣を着た人が台車のようなものを運ぶ姿を見て
ぼくは給食当番ということが頭に浮んだ。
派手なサイレンを鳴らしながら救急車は往来を抜けていった。


ぼくたちは昼食もとらないまま、いままずなにをすべきかというはなしになり
とにもかくにも家族へ連絡ではないかとの声があがった。
「課長は独身なはず」山田が思い当たった。
いずれにせよ緊急時の連絡先というものがあろうと
総務にいって社員名簿やらを見せてもらった。
ことはうまくいかないもので、課長の緊急時連絡先は
本人の携帯番号になっていた。
どの書類を見ても同じ番号しか書かれていない。
「使えないやつ」山田は歯がみした。
救急車に添乗していった韮崎さんから電話があり、
課長は盲腸であるということらしかった。
緊急手術のあと入院ということになるので
着替えやら保険証を持ってきてほしいという。


午後からのスケジュールに都合がつくのはぼくと隣の席の山田だったので
課長の入院への対応を請け負った。
社員名簿で調べた住所をもとにぼくらは課長の自宅へ向かった。
道々、課長という人を改めて思い返す。
課長は学生時代にラグビーをやっていたとかで180cm近い身長に
隆々とした上体の、いわゆる体育会系を絵に描いたような人だった。
すがすがしいスポーツマンなら見ている方もすがすがしいが、
課長はとんでもないスケベエである。言動も行動もセクハラ天国で
毎晩毎晩部下の誰かを連れて飲み屋をハシゴし、浴びるように焼酎を飲み
ホステスをからかい、風俗へと繰り出す。飲む打つ買うを片端からこなす。
平素も無駄に声が大きく、誉められていても叱責されているような口調だ。
なにごとにでも首を突っ込み、口を出したがる。
興奮すると関西弁が出て、それが恐れを増長する。
表だって憎悪を口にはしないが、皆あまり課長を快くは受けとめていない。
「なんであいつのために俺らが面倒見なきゃなんないかね」
山田はこぼした。ぼくも同感だった。


分倍河原の課長の自宅は思いの外瀟洒なマンションだった。
「いいとこ住んでやがるな」山田は舌打ちした。
管理人に名刺を渡して事情を話し、鍵を開けてもらった。
あの豪放磊落な課長のことだから、部屋もさぞかし…と
ぼくも山田も思っていた。
靴を脱いで上がった部屋は…驚くほど片づいていた。
というより片付けようがないというか、なにもないと言っていい。
2LDK。子ども一人の家庭が住めばふさわしいその部屋には
調度というものがほとんどなにもなかった。
寝室のドアが開いており作りつけのクローゼットに
スーツやらクリーニングから引き上げたままのシャツやらが押し込められている。
印鑑や保険証はそこにあった。
リビングの床にぽつんと置かれたテレビ、その対面の壁に寄せて
ベッドマットが直置きされ、毛布が隅に丸められている。
がらんとした、いびつな寒さを感じる部屋だった。
「見ろよ」山田がつぶやく。
示されたそちらを見ると壁に写真が一枚、絵が一枚押しピンで貼り付けられている。
近づいてみる。
写真は2本のロウソクを吹き消そうとする女の子。誕生日のようだ。
引き剥がしたスケッチブックに描かれた子どもの手による絵は三人の…家族だろうか。
へたくそなその筆致は、しかし伸びやかに紙面一杯に描き込まれている。
「そういえば」山田がぽつり口を割った。
「課長、独身ていっても別れたんだった」
ぼくは言葉が出なかった。
空虚な部屋の中にあってそこだけぽつんと彩りを添える二枚に
オヤジむき出しな課長の別の表情を見た気がした。


着替えや保険証を届けに病院を訪れると、すでに手術は終了しており
課長は平素の剛胆な調子を取り戻していて、ぼくらをねぎらった。
「屁が出そうになったら電話するから全員で聞きに来いよ」
そう言うと課長はいつものように下卑た笑い声を上げた。