白熱(デッドヒート)

「大変なことになった」オフィスに戻るなり韮崎さんは呻くように漏らした。
「?」ぼくも隣の席の山田も注目した。
走ってきたのか、韮崎さんは大きく肩で息をしながらあえぐように言った。
「冷房が規制されるらしい」
「え?」ぼくらは眉をひそめた。
韮崎さんの話では来る7月1日より、社内の冷房温度設定を28度に固定し
午後8時以降は電源を落とさなければならないことに決定したらしい。
「そんな…」ぼくと山田はたじろいだ。
日中の温度設定はまぁよしとしよう。ぼくもコンビニのような
呆れた冷房設定は最前より由々しく思っていた方だし、女子社員の席が
エアコンの吹き出し口の真下なので苦情が出ていたのも知っている。
だからまぁ日中はよしとして。
問題なのは午後8時以降のエアコン禁止だ。
ぼくと隣の席の山田、韮崎さん、まれに課長などが残業で居残ることの多い面子だが
窓の開放できないオフィスでは夜といっても甚だ暑い。そんなさなかで
PCを十数台起動させ、むくつけき男ばかりが4〜5人ウンウン言ってるんだから
余計に暑苦しい。残業時のエアコンは必須だ。それなのに…
「大変なことになった…」韮崎さんは頭を抱えた。
そうなのだ。この決定にもっとも難儀するのは韮崎さんなのだ。
韮崎さんは巨漢である。身長175cmで、体重は昨年の健康診断の結果では
遂に大台を超えて104kgを記録した。
巨漢の人にありがちなことだが、韮崎さんは大変な汗かきである。
巨漢の汗かきは季節を選ばないようで、韮崎さんは冬場でもきちんと汗をかいている。
座席の両端を女性社員に挟まれているが、これまで冬場には乾燥肌や静電気に
みまわれて閉口してきたという彼女たちは、韮崎さんの隣に席取るようになってから
そういった弊害がぴたりと治まったと、韮崎さんのモイスチャー効果を報告している。
それほどの汗かきだ。
コンビニで立ち読みしていて目の前のガラス窓を曇らせたこともあるらしい。
夏場はバッグの中に毎日二枚のバスタオルを持参してくる。それすらも夕刻には
絞れるほどの湿り気を帯びている。
そんな韮崎さんだが身だしなみはきちんとしていて、隣の席の山田などとは違い
ジャケットをきちんと着用し、プレスの効いたシャツを欠かさない。
社会人として誠に正しい出で立ちなのだが、出社して1時間もたたない内に
上着は濃淡のグラデーションに染め上げられ、形状記憶のシャツも
物忘れのひどい状態にさせてしまう。
見ている方が辛いから、オフィスでは上着は脱いでくださいよと進言しても
「お客様も見えるから」といってサイケ模様になったジャケットを手放さない。
韮崎さんはきちんとした人なのだ。巨漢で汗かきなだけで。
うちの会社も社員に対してひどい仕打ちをするものだ。ぼくらは憤慨した。
「しょうがないよ」韮崎さんは寂しそうに笑った。
やりきれない気持ちだ。真面目に生きているだけなのになぜ…。
午後になって届いた総務からの回覧板には、韮崎さんが伝えたように
冷房使用の規制と、それにともない「クールビズ」の励行がしたためてあった。
「一枚脱いだぐらいじゃぁね…」
韮崎さんのあごにはもう滴がたまっているのだった。