氷の世界

課長のことでなんとなく流して過ごしていたが、地獄の冷房規制が
金曜から始まっている。
が、金曜は皆なにか取り憑かれたように仕事に没頭し、課の者らほとんどが
6時半には退社するという区役所のような行状で一日を速やかにやり過ごしたので
それほど辛酸をなめるようなことにはならなかった。
ほぼ定時にキッチリ仕事を片付けたぼくらは、なにか道徳のテレビのような
「やればできるじゃない」的な感動にこころ震えたものだった。
そして今週。規制は撤廃されることなく、僕らは生ぬるい風に吹かれ…
の予定であったが、東京は日中でも20度前後の気温で、むしろ肌寒いのである。
梅雨寒、そういうことなのだろう。
「早まった」気勢を上げてクールビズな装いを決め込んだ隣の席の山田は
天を見上げ憎々しげにひとりごちた。
心配に胸を痛めていた韮崎さんは、ちょっとだけ過ごしやすそうだった。
西から流れてきた大雨の様相が今朝から関東を覆っているらしい。
花粉の飛散甚だしい頃は救いの雨のように感じていたものだが、元来雨は嫌いだ。
ことに今日のような土砂降りという塩梅の雨は気が殺がれる。
ただ歩いているだけでも毛管現象で吸い上げた泥水が裾から膝まで染める。
傍らを自動車が通過しようものなら飛沫は胸元まで広がる。
小脇に抱えた荷物に水滴が当たらぬよう気を配れば、反対の肩はずぶ濡れだ。
外は肌寒くとも、しかし電車の中は湿度を含んだ生暖かさ。
車窓の曇りが滴垂らしていけばこれがすべて人いきれによるものなのかと思うと
胸が悪くなる。
雨は嫌いだ。高橋洋子じゃないし、雨は嫌いだ。



傘を持たなければならないというだけで、前向きな気持ちをすべて台無しにされ
どんよりとした気持ちで打ち合わせに出かける。
目一杯横に引かれたマイナスの心は眠気を誘う。
移動中の電車で運良く腰掛けることが出来れば、ひとたまりもない。
幾ばくかの寝汗を伴う悪い眠りから覚めると下車するべき駅。慌てて下りる。
走り去る電車を横目になにか足りない気がする。
バッグを忘れてしまった。
慌てて駅員詰所に飛び込み事情を告げる。2つ先の駅で発見され保管されていると聞き
安堵する。時間を確認し、引き取りに行っても打ち合わせには間に合いそうなので
バッグを預かってもらっている駅へ移動する。
昼下がりの車内は曇天模様を反映して下がりきったテンションを隠そうともしない。
なにか飲まれてしまいそうで、それでいてこのやる気のなさも心地いいななどと
弛緩した気分のままフラフラと下車する。駅員詰所へ向かいことの次第を告げると
本人確認と荷物の特徴などを質され、書類に記入しバッグと再会する。
詰所を出ると引き返しの電車が滑り込んできたので、慌てて飛び乗る。
バッグを確認し溜飲を下げたのもつかの間、今度は詰所入口に
傘を置き忘れたことに気づく。
ふがいなさに呆れる。ま、どうせ安物の傘だ、と見切りをつける。
置き忘れた傘に未練はないが、車窓をたたく雨足は存外強い。
これでは先様に伺う前に濡れネズミだ。
電車は目的の駅へ到着。依然雨は猛々しく辺りに注いでいる。
仕方ないので駅ナカのコンビニでビニール傘を求める。
柄に書かれたAPOってなんだよ、なんで粉ふってんだよと悪態をつきながら
姑息なほどしかない傘を広げ、先様に向かう。
打ち合わせはあっさり終わり、こんなならメールでいいじゃんなどと思いながら
水気を含んだ靴とまつわりつく裾をあやしながら社へ戻る道をたどる。
肩幅もないようなビニール傘からはみ出した部分はべっとりと濡れた。
なにもかも投げ出したいような殺伐とした気分で電車を迎える。
「ホームと電車の間に空いているところが…」アナウンスが終わらないうちに
上がりかまちの部分で足を滑らせてスネをいやという程打つ。
涙ぐむ。外は灰色。
痛みは下車する駅についても止むことはなく、左足を引きずりながら階段へ向かう。
上りきったところで撃たれたように呆れる。
また傘を置き忘れた。
もうどうにでもなれ、とばかりに駅付けの売店で傘を求める。
生憎ビニールの安物が品切れなので、やむなく1500円の普通っぽい傘を選ぶ。
余計な道のりを歩いたので、スネの痛みがぶり返す。
触れてみると熱を持って腫れている。
手に入れたばかりの傘を杖代わりに歩き始める。
駅舎のひさしで雨をしのげるので傘は杖のままで信号を待つ。
青に変わって歩き出そうとしたとき、側溝のフタの穴に杖代わり傘を差し込んでしまう。
体重を掛けていたので傘は身の中程でぐにゃりと曲がってしまった。
「…」
まだ烈しい雨に打たれながら途方に暮れた。肩も頭も背中も濡れそぼって冷えていく。
なにをやっているのだろう俺は。