カルアミルク

ここのところ隣の席の山田がしきりにぼくを飲みに誘う。
まれにお酒の席の雰囲気がすきとか居酒屋の酒肴が食べたいからといって
飲めもしないのに飲み会に参加する娘がいるが、ぼくは全くと言っていいほど
飲めないし、脂っこい料理の多い居酒屋のメニューを好んで食べる気もないので
誘われてもいつも断っている。
昨日は平素にも増して執拗な誘いだった。泣き落としてみたり
脅迫めいた言葉を並べたり、果ては土下座までしそうな勢いで懇願する。
「なんでそんなにしつこく誘うのさ?」尋ねてもモゴモゴと明瞭さを欠く。
「わかったよ」詮無く承諾すると、山田は小躍りしながら
ぼくの手を取り謝辞を述べた。
なにか魂胆があるのだろう。いずれにせよその企みは
ぼくに向けられているものではないから気にかけることはないが、むしろ
泥酔した山田を介抱して家まで送り届けるのは、いずれぼくの役目なので
それを思うと気が塞いだ。



待ち合わせの時間に少し遅れて店に到着した。隣の席の山田はもう中ジョッキを
中程まで空けていた。
軽く遅れたことを詫びながら席に着いた。運ばれてきたおしぼりで
手を湿していると、山田がギロリと睨んでいる。
「なにさ?」
「お前、余計なことするなよ」
「?」意味が分からない。
と、山田はふいにだらしなく相好を崩すと
「こっち、こっち」ぼくの肩越しに手を挙げた。振り返ると喜結目さんが
ぼくらに気づいて歩み寄ってくるところだった。
「ごめんなさい、遅れちゃって」小首を傾げると山田の隣の席に着いた。
山田は締まりのない表情で喜結目さんの遅れた理由一言一言に
「そーなのー、そーなのー」とバカみたいに繰り返している。
喜結目さんは中生をオーダーし、ぼくに目配せをする。
「ああ、こいつ下戸だからウーロン茶かなんかで」山田がめんどくさそうに
割ってはいる。
「飲めないんですか?」
「あぁ、まあ」咎められたような気分でふがいない応え方になってしまった。
喜結目さんの真っ直ぐな視線は、時に射すくめられるような鋭さがあって
ぼくは苦手だ。
「じゃぁ、これなんかどうですか?」メニューを指し示す。
カルアミルク、とある。
「アルコールでしょ?これ」ぼくは少し戸惑った。
「ミルクを多めにしてもらえば。カフェオレみたいなものだから」と微笑む。
少しためらわれたが後に退けないような気がしたので
「じゃぁ、それで」
運ばれてきたのは確かにカフェオレのようだった。
「乾杯!」山田の気勢に押されてグラスを合わせた。
初めて口に含んだカルアミルクは、やわらかな甘みと渋さに似た苦みと
ふわりと鼻に抜けるアルコールをひた隠しにするようなミルクの香りが
なにかとても懐かしいものにあったような気分にさせた。
「おいしいや」
「でしょ?」
目が合うと喜結目さんはにっこりと笑った。



お目当ての喜結目さんを誘い出せた快挙に興奮した山田は、次々にジョッキを干し
一人でメートルを上げて、あっという間に眠り込んでしまった。
「しょうがねぇな。いつもこうなんだよ」
テーブル席から座敷に移り、山田を適当に転がすとぼくはため息をついた。
山田を木偶のぼうのように言ったが、ぼくもカルアミルク2杯ですっかり
顔に火照りを感じていた。
喜結目さんは、噂には聞いていたがかなりの酒豪らしく、顔色ひとつ変えず
ナントカ山という地酒のグラスを傾けている。実に美味そうに飲む。
ゆらゆらと揺れるグラスの底をみつめる喜結目さんの姿をぼんやり窺いながら
何の気なしに尋ねた。
「邪魔しちゃったんじゃないかな?今日は」
「?」喜結目さんは顔を上げる。
「なんでぼくまで呼んだんだろ?こいつ」山田を見やる。
喜結目さんはふふふと笑いながら
「わたしが頼んだんですよ」
喜結目さんはぼくを見る。苦手な、射るような視線だ。
「もう一人一緒ならいいですよって」
急激に顔が熱くなってきた。
手近にあったおしぼりでゴシゴシと痛いくらい強く顔を拭う。
「それ、どういう意味…」
顔を上げると喜結目さんは鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしてぼくを見ている。
「?」
手元のおしぼりに目を落とすと真っ赤な染みがあり、
ぽつんぽつんと赤い滴が垂れてくる。
「ありゃりゃ」人中のあたりに生暖かい一筋を感じる。
「あ、これ」喜結目さんはバッグからポケットティシュを出した。
「かたじけない」変な受け答えだったが気にしてられない。
ティシュを丸めて鼻に突っ込む。ふあーふあーと変な呼吸。
間があいて。
きゃはははと声を上げて喜結目さんは笑い転げた。
「からかったのかよお」バツが悪かった。
「鼻血出した大人の人、久しぶりに見ました」涙を流して笑っている。
無性に恥ずかしかった。グラスにぼんやり映ったぼくの顔の真ん中には
アゲハの幼虫のようなティシュがすっぽり収まっている。
「ちぇっ」舌打ちして見せた。
涙を浮かべて、それでも強い喜結目さんのまなざしが、
なぜか今はそれほど苦ではなくなったような気がした。