待つわ

タイミングを逃し、遅い昼飯になった。
タイムテーブル的には時間がずれてしまったが、一丁先の伊勢屋は
昼時過ぎると俄然サービスが良くなるので期待していた。
ここのところ食欲がある。言い方がヘンだがきちんと腹が減る。
居候の食いたくなくても食え政策が功を奏しているのかも知れない。
引き戸をくぐると案の定、伊勢屋は空席が目立つ。それでもランチタイムは
待ち人が店外へあふれるほどの人気のある店なのだ。
ぐるり店内を見渡すと「おう」と声が上がった。支倉部長が手招きしている。
「こっち来いよ」ぼくはその席へ着いた。
部長の前には鯖味噌煮定食。「脂のってるぞ」
茶を運んできた店員に部長はご飯のおかわりを、ぼくは鯖竜田揚定食を頼んだ。
「鯖だよな、やっぱり」部長は笑顔をほころばせた。



もう50に手が届く歳だと思うが、支倉部長はトレードマークのアイビースタイルが
妙な塩梅で老いを感じさせない。
今日もピンクのオックスフォード地B.D.シャツに黄と深緑のレジメンタルタイ、
タータンチェックのパンツにコインローファー。
漫才師のような出で立ちである。
そういった装束の上に丹精に刈り込まれたクルーカットの髪とボストンタイプの
鼈甲フレームをかけた色艶のいい、まるで食い倒れ人形のような顔がある。
派手といえば派手だが、見慣れてしまったのかトータルでスタイルが
揺るぎないからか、誰の異論も寄せ付けない風格がある。
クールビズ開始の7月1日にはサックスブルーのボールドストライプの
プルオーバーB.D.シャツにオフホワイトのコッパン、モカシンという
ワイルドワンズかというような格好で出社し、皆の度肝を抜いた。
スタイルのある人は確立されている。



支倉部長という人はぼくがうちの会社で初めて世話になった人である。
総務部長で人事も兼任しているので入社試験では応募者一人一人と面接する。
三年前のぼくのときも支倉部長の面接を受けた。
ぼくは今のこの会社を心底志望していたわけではない。というかこの業界を
志望していたわけではなかった。学生時代に手を染めた映像制作関係の職種を
手当たり次第に応募し、ことごとく跳ね返されていた。
今日びフリーターだのニートだのが世に認知され、それもひとつの生き方と
まかり通っているが、なぜかそこに身をやつすことをぼくは許せなかった。
活動開始の頃の勢いは徐々に失速し、このままだと就職浪人になるなぁと
焦り始めて、なにか言葉は悪いが保険とか滑り止めといった趣で
うちの会社の門を叩いた。勢いは陰り始めていたが、
それでも望む職種にありつけるという全く根拠のない自信だけは持っていた。
面接の日。支倉部長は今でこそ見慣れたそのスタイルで応接室に現れた。
なにかふた周りくらい大きなオーラに包まれたその姿を前に身は引き締まる。
開口一番
「今日の昼飯はなんだった?」部長は尋ねた。
「え?あ…鯖です。鯖味噌煮定食」面食らって、応えた。
「ほー。鯖、好きなの?」
「え、ええ。安いし」
「私もだよ」笑みを浮かべる。
質問の主旨が分からなかった。実際、質問そのものに意味はなかったらしい。
その後、型通りの質疑がなげられる。
ひと山超えて間が空いたとき、今度はぼくから口を開いた。
実は心底志望しているのは別の職種であること、現在その職種に応募しまくって
いるが好感触が得られないこと、それでもまだあきらめたくはないので今後も
狙っていきたいという旨を、まるで歯に衣着せず直截ぶつけてしまった。
その間、支倉部長は腕を組んだまま黙ってぼくの話を聞いていた。
一気にまくし立てて、はたと我が身の非礼ぶりを振り返り、ぼくは押し黙った。
しばらく無言の時が空いて
「迷いはないのか?」部長は静かに問うた。
「その気持ちに揺るぎはないのかな?」
「…」ぼくは即答こそできなかったが、募る思いを載せて返答した。
「はい」
部長はしばらくぼくを見つめて
「うむ」と一言頷いた。
「じゃあ、がんばってください」そして手許の履歴書などを整えながら
「またその後の状況を尋ねてもいいかな?」
「あ…はい」ぼくは曖昧に応えた。


部長との面接の後も、ぼくは希望する職種に挑み続け、その都度
ドン・キホーテのように跳ね返され続けた。
その間も一月に一度ほどの間隔で支倉部長は連絡を寄越し、ぼくの成果を尋ねた。
そんなことを続けて、気がつくと卒論を提出するような時分。
まだぼくの希望は叶えられることはなかった。
どこの門を叩いてもぼくという存在を必要とされることはなかった。
そんな折り、支倉部長からの電話。いつものように状況を尋ね、
ぼくも通例になっているはかばかしくない成果を応えた。
「うちへ来てみないか」
これまで幾度となく電話で交わした会話には一度も現れなかったこの言葉が
初めて部長の口から告げられた。
ぼくは電話口で押し黙った。
「どうだ?うちへ来ないか」もう一度、部長は問うた。
ぼくはここまで辛抱強くわがままにつきあってくれた部長との時間を思い返した。
この時勢、就職難が叫ばれるいま、なぜそこまで?ぼくは部長に尋ねた。
「正直に全部、気持ちもきちんと伝えてくれたこと。それと」部長は少し笑って
「鯖が好きだっていってたから」




鯖味噌定食を平らげて満足そうに茶をすすりながら
「やっぱりうまいな」ぼくを見て部長は笑顔を浮かべた。
めずらしくおかわりまでした膳を、ぼくも平らげた。