私がオバさんになっても

居候はブログにこんなことを書いている ここをクリック


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人は変化する。子どもは大人になるし、非行を更正したりもする。
ひどいときは性別まで変わったりする。
「おばさんというのはいくつからなんだ?」居候が問う。
究極の命題ともいえる問いだ。うかつには答えられない。
「そんなの…ぼくより人生経験あるんだから、あんたのほうが
よくわかってるんじゃないの?」はぐらかした。
「うむ…。『世間では女盛りは19』だという輩もおるようだが」
「森高だね」
「調べでは女子高生でも2年生の夏までが売り時だそうだぞ」
「どこで調べたんだよ?」意外にスケベエなのかも。
「女子高生のブログなどではそのようだ」目を凝らしてるんだね。
さしたる興味もわかないが、我が身をおもんぱかり
「ぼくもオジさんなんだろうな。めっきり」遠い眼になった。
「オレ様は自分をオジさんだとは思っとらんぞ」居候は気色立つ。
居候を見る。
「…だよね。オジさんじゃなくてオジーさんだよね」
居候は鉄拳を振りかざし「なにを言うか!赤き血猛き青年ぞ」
「あはは」ぼくは笑いながら逃げた。
「しかしな」居候はふと考え込む。
「?」
「アタマの中は…否、気持ちは若い頃となにも変わっとらんのだが」
上腕二頭筋を収縮させながら
「なんだろう?周囲が変化していくのだろうか」
「おじさんなんだなとは認めるの?」覗き込むようにして聞く。
「おじさんということばは好かんが…」まだ少し憤慨している様子。
「老い、というのは感じるな」
「老い、ね」ぼくは復唱して噛みしめた。


居候は自らに問い質すように、奮い起こすように蕩々と語りだした。
誰もが好きこのんで老いているわけではない。また老いを感じる尺度も
人それぞれだろう。からだが動かなくなって感じるものもあるだろうし
世相というものとの距離でそれを感じるものもあろう。
しかし、すべては客体的な評価に過ぎないと思う。
大事なのは自分がオジさん、オバさんになったということを
真摯に受け入れるか、そこに甘んじて成り下がってしまうかだとおもう。
オバさんだからシュミーズ姿で表を歩いてもいいとか
オバさんだから髪を紫や緑に染めてもいいとか
オバさんだから狭い道を数人で横に広がって歩いてもいいとか
オバさんだから手荷物を放り投げて電車内の座席を確保してもいいとか
オバさんだからなにごとに対しても図々しくなっていいとか
…。
たくましく生きてきた結果がマイナスではなく豊かに感じさせるなら
老いは勲章というか一つの証だろう。


居候は息を上げながら一気にそこまでしゃべり倒した。
老いを老いと感じることはやはり不安があるのか。
ぼくはわからない。まだ。
素敵に歳をとるなんて女性誌みたいなことは考えたこともないし
「もてるオヤジはちょい○○」なんてLEONみたいなことに注目もしない。
時間が経ったから、幾星霜重ねたから歳をとった…それだけのこと。
歳をとったらどうありたいとか、若いうちにやりたいことをやっておこうとか
そういう展望も、ない。
なにか生き方というものを客観的に見られるようになれば、
老いも実感するということか。
あまりに大きな問題のようで掴みきれない。
むしろ今、気になるのは今朝食べた豆腐が酸っぱく感じたことの方だ。
世界はおおむね平和だ。