野生の風

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「家を空ける 滋養のある食物を冷凍してある」
居候はしばしば隠遁する。
土曜日も休日出勤から帰ると書き置きを残して居候は姿をくらましていた。
逗留期間を限定していないところを見ると2〜3日は帰らないつもりか。
ひどい空腹を抱えて帰ってきたので、期待していた夕げに背かれて
少しばかりのいらだちを感じていた。考えてみれば勝手な話だが。
冷凍庫を開けると大きなタッパにカレーが入っていた。
居候特製のカレーは食後に誰かとの面会を憚られるくらい
ニンニクが利く。夏仕様ということで最近はすりおろし生姜、
ゴーヤのスライス、素揚げの豚レバーが入っている。
湯むきした大量のトマトを潰してみじん切りのタマネギと合わせて
ベースにしているのでそこはかとなくイタリアンな趣もある。
これをグレープフルーツ果汁でのばしてスープストック、加えて大量の鷹の爪。
鷹の爪はあえて炒めないので辛みが流出する。
調理の度に説明するのでほぼほぼ憶えてしまった。
元来刺激物は好まないぼくだが、不思議とこのカレーは食指が伸びる。
お馴染み特製夏カレーが冷凍されていた。ありがたい。
どうせなら一食分ずつ小分けにしてくれればいいものを。大型のタッパは
7〜8人分ぐらいの量がある。フタを開けるとカチカチだ。
しょうがない、このままレンジにかける。
タッパを電子レンジに放り込みボタンを押す。庫内にランプが灯り
トレーが回転…したと思ったら灯りが消えて回転が止まってしまった。
「?」
ドアを開けて様子を見、再度調理ボタンを押す。
今度はウンともスンとも言わない。
何度か同じことを繰り返してみる。変化はない。
操作が複雑な機械ならいろいろ手の施しようもあるが、昨今の電子レンジは
猿でも使えるほど操作が簡略化されており、従って鍵を握るのは
調理スタートのボタンしかない。ここを押してなんともならないのなら
どうにも出来ない。壊れたということか。
汗をかき始めたタッパを前に手をこまねいた。猛烈に空腹を感じている。
思いつき、お隣さんに救いを求めようと腰を上げた。
時計を見ると23時過ぎ。少々はばかられる時間ではあったが空腹には勝てない。
お隣さんのドアを叩いた。反応がない。声を出して呼びながらノックしたが
返事はなかった。
とっぷり暮れた夜空はなにやら風雲急を告げる雲行き。耳に届く低いうなりは
風か飛行機か。
手のなかのタッパは相変わらず冷たい。
電子レンジ…そのことばかりが頭をかすめる。
お隣さんをあきらめ打開策を考える。思いつき大家を訪ねる。
二軒先の大家は窓の明かりが落ち、既に休んでいることが窺われる。
呼び鈴を押すのもはばかられ、その場を後にした。
汗を浮かべる大型タッパを手に、あてもなくフラフラと通りへ出た。
電子レンジ…電子レンジ…熱に浮かされたようにそのことばかり考える。
このまま食べなかったら居候は激怒するだろう。それよりも何よりも
今は空腹にさいなまれている。食べたい、食べたい、食べたい。
夕げの幻が脳裏を去来する。芳しい香りも鼻をくすぐる気がする。
腕にしずくがはじけた…と思ったとたん雨が降ってきた。
とぼとぼと歩いていると雨足は強まり、ぼくは小走りになる。
アーケードをくぐり商店街を行く。雨はしのげるが通りは閑散としていた。
ひなびた商店街は軒並みシャッターを下ろし、知らんぷりを決め込んでいる。
雨に煙る街の灯を見て泣きたくなった。世界中から見放されたような気分だ。
夜更けの商店街にカレー入りの大型タッパを持った男が涙ぐんでいる。
電子レンジがないばかりにこんな。電子レンジ…電子レンジ…。
コンビニ。思いついてぼくは来た道を戻った。
結露の滴を垂らすタッパを支える腕は小刻みに震えが来ている。
ゆらゆらする荷物にバランスを取られながらぼくは走った。
通りの向こう側にコンビニの灯りが見える。
雨は一段と強まり、遠く雷鳴も聞こえる。
全身濡れそぼちながらコンビニに駆け込んだ。
店員は怪訝そうな顔をしている。当たり前だ、濡れ鼠の男が
なにか得体の知れないタッパを持って駆け込んできた。
ぼくもそこでふと我に返り、自らの体を説明する口実を探した。
とりあえず何もなかったように店内を散策する振りをした。
どう言えばいい?どうもこうもない、カレーを解凍して欲しいだけだ。
カレーを解凍して欲しいだけだ。
ぼくはきびすを返しレジに向かった。



間抜けである。
思えばそのまま鍋に移して火にかけても、湯煎にするでも、あわよくば
ほったらかして置いて一眠りでもすればいいものを。
なにがぼくをあそこまで駆り立てたのか。
客足が途絶えていたコンビニと気のいい店員に感謝する。
冷凍品を解凍するのは電子レンジ。この固定観念から脱却できなかった
自分を恥じる。食欲に突き動かされ見境をなくした自分を嘆く。
部屋に戻り、7割方解凍されたカレーを鍋に入れ温めた。
得も言われぬ香りを放ちカレーはよみがえった。
濡れた衣服を取り替えながらぼくはふと、最前までの自らの衝動を
サバンナに生きる動物たちのそれに重ねてみた。