世界は二人のために

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4つ上の先輩の黒坂さんは今年4月の交際宣言から、
瞬く間もない5月の仏滅に式を挙げた。
あまりの迅速行動に、すわ「できちゃった婚」かと噂された。
無理もない。相手は5月に16歳になったばかりだった。
式の前日まで「犯罪者」「ロリコン」と数多の罵声を浴びせられた
黒坂さんだったが、実際のところ「できちゃった婚」ではなかった。
なにをそんなに生き急ぐのかと周囲の思案を誘ったものだが
それについては明瞭な理由は知らされていない。
馴れ初めと呼ぶようなことについては口を割っていたが、それによると
高校入学したばかりの後の新婦の家庭教師めいたことを、たった一度だけ
担当した。それだけだという。
これを聞いて周囲のものらは再度「何を教えたんだ犯罪者」「ロリコン」と
絶え間なく罵声を浴びせた。一時妬みの炎がオフィスを焼き尽くした。



黒坂さんという人は真面目とか堅物といった形容詞以外あてはまるものが
見当たらないような人である。勤勉さでは韮崎さんの上を行く。
常に冷静平常心で、ミスもしないが突出した行動もない。
よく言えば控えめな、悪く言えばいるんだかいないんだかわからない
そんな人だ。面立ちもこれといった特徴がなく、だから憶えられにくい。
都会の喧噪の中では保護色を身に纏ったように姿が見えない。
むしろあえて身を隠しているような印象を揶揄して
アーミッシュ黒坂」の異名をとっていた。
……ぼくに言われたくはないか。こう言うと認めてしまうようでアレだが
ぼくよりも存在感が薄い。向こうもそう思っているだろうけれど。
そんな黒坂さんがいきなり14歳年下の…歳の差のみでは衝撃が伝わらないな
16歳の女子高生をめとったのだから周囲も色めかずにいられなかった。
実際ぼく自身も彼我の相違を明確に言及できず、何か自分がひどく
ダメなもののように思われ、頭を上げることができなかった。


披露宴は盛大だった。
まだこんなサービスが残っていたのかというドライアイスに包まれ、
フラッシュライトを浴びながらゴンドラで舞い降りるという演出で
度肝を抜いた新郎新婦は、遠目からではどう見ても親子か東南アジアの
美人局のようで、ぼくらは羨むよりも呆れた。
キャンドルサービスの際すぐ脇を通り過ぎた新婦は、ぼくの記憶では
笠巻と同じくらいかそれよりも身長が低い印象だった。
山田と共に写真撮影を任ぜられていたぼくは、高砂に近寄る瞬間があったが
ちらと見ると新婦の両足は床に届かず、宙でぶらぶらと揺らされていた。
引き出物として寄り添う新郎新婦のスナップが焼き付けられた
絵皿を持ち帰らされた。
オフィスを席巻した黒坂旋風も式を挙げてしまえばたちまち沈静化し、
日常のひだに埋もれた。
新婚と認識していても職場では単体で活動しているので
それまでの平素と何ら変わりばえしない。
アーミッシュ黒坂はやはりアーミッシュ黒坂だった。
それでも以前より会話を交わしやすくなった変化は感じられた。



「今夜、うちへ来ないか?」帰り支度を始めたころ、黒坂さんが
ぼくと山田に声をかけた。
「ええ?勘弁してくださいよ」退け腰に応え、山田はぼくを見た。
ぼくだって16歳の新妻がいる新婚家庭に邪魔する野暮ではない。
「うちの奥さんが食べ物を振る舞うからさ」黒坂さんは譲らない。
山田は辟易した様子でぼくを窺う。逃げられないと思った。
「じゃ、折角だから」
ぼくらは少しばかりの興味と多分に居心地の悪さを感じながら
黒坂さんの家庭を訪れた。
「もう少ししたら新築マンションに移るんだけどね」小さなテラスハウス
現在の住まいを見上げて黒坂さんは言った。
「ただいま」ドアを開けると奥からパタパタというスリッパの音を響かせて
奥さんが小走りにくる。
「のかえんなたーい」そう聞こえた。ぼくと山田は背中のむしずを押しなだめて
「お邪魔しますぅ」黒坂さんに続いてドアをくぐった。
「いだったーい」そう聞こえた。鼻炎持ちなのだろうか。
玄関先で出迎える新妻は相変わらずのタイニイサイズだった。
「どうどー」奥へ招き入れる。ぼくと山田は苦い顔をして従った。
「楽にしてよ」見ると黒坂さんは真っ赤なキャプテンサンタの
スウェットに着替えていた。
なんだかひどく決まりが悪い。ぼくらは所在なくてテーブルについた。
「うちの奥さん、料理勉強中なんだよ」相好を崩しながら黒坂さん。
「そっすか」勢いなく山田。
「おばたてしましたー」そう聞こえた。その声の方を見て
ぼくも山田もたじろいだ。
奥さんは西瓜半分ほどのボウルいっぱいにゆで卵を入れて
キッチンから出てきた。
「すごいだろ。やっとひびを入れないで茹でられるようになったんだぞ」
誘いをかけたときの黒坂さんの言葉を反芻した。
『うちの奥さんが食べ物を振る舞うからさ』
食べ物…食べ物…食べられるもの。そういうことか。
新婚夫婦はゆで卵を頬張りながら、ひとしきり相和しの様相なのだ。