もしもピアノが弾けたなら

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一人旅を決め込んで、居候はしばらく帰るつもりはないようだ。
初夏の声が聞こえるか否かという頃に日中のエアコン使用を禁じたわけだが
文句を言いながらも従ってきた居候だった。今夏最高に並ぶ猛暑を
記録し続ける8月は、さすがに堪えきれなかったのだろうか。
禁を解き忘れていたことを少なからず申し訳なく思った。
いま居候は都内散策とはいえ高原にも似た山間部をウロウロしているようだ。
どこからブログを更新しているのか、ふと気になったがヤツのことだ。
フーテンの寅さんよろしく、土地土地で出会った人々の生活に
入り込んでいって面倒を掛けているのだろう。
しかしぼく自身がそうだが、居候の存在は厄介だとは思えども
邪魔とか迷惑とは感じきれない不思議な存在感がある。
ここで敢えて存在感といったのは、これを魅力と口に出して言いたくないだけ。
言いたくないが認めている。



勤務時間中に電話を掛けても応答がなかったので察しはついていたが
案の定、帰宅しても居候は不在だった。
家を空けて4日になる。
酸いも甘いも噛み分けた大人だ、今更案ずる必要もないが。
当初こそ羽を伸ばせると思っていたものの、不在2日目からすでに
落ち着かなくなっている自分に気づく。これも認めたくないが
帰宅しても手持ちぶさたなのだ。ここでも寂しいとは言いたくない。
虚空に向かって強がっても埒があかない。
退屈を持て余して、ふと先日連れていかれた「スカーラ」を思い出した。
下戸のぼくがウーロン茶を飲みにスナックに行くというのは、甚だ酔狂だが
ユマのことが思い出されて足を運ぶ気になったのである。



ドアをくぐると、先客が一人カウンターにいた。
40代半ばと思しきスーツ姿の男。傍らでユマが接客していた。
「あら、ひとり?」これはアケミさん。ぼくの背後を見やって
居候の姿を探しているようだ。
「すいません、ぼくだけです」なんとなく詫びてしまった。
「あら、いいのよ。いらっしゃい」テーブル席へ促す。
思い描いていた展開と食い違い、ぼくはなにか当てが外れた気分で
ソファに座った。アケミさんがぼくの応対をするらしい。
残り少なくなっている居候のボトルとアイスペールなどを携えて
アケミさんはぼくの隣に腰を下ろした。窮屈なソファが一段と沈み、
反動でぼくはアケミさんの肩に顎を乗せるような格好になった。
「あら、積極的ね」ニタリと笑う。
「すいません、ちがいます」あたふたして、ちらりカウンターに目をやると
ユマと一瞬目があった。ユマはすぐに隣の男に視線を戻し、
屈託のない笑顔を浮かべた。
「水割りでいいの?」よそ見していたところを腕を掴まれて向き直らされた。
「あ、いえ。ぼくダメなんで」慌てて断った。
「あらやだ。じゃ、なにしに来たのよ?」痛いところを突かれる。
「その…」
「なーんて、お客さんに言っちゃダメよね」ウインクされた。怖気立った。
こっそりユマを窺う。詳細は聞こえないが、なにやら談笑に花が咲いている。
先日は病み上がりのように見えたユマの頬が色づいて見える。
「…」
マスターにウーロン茶と声を掛けようとしたアケミさんを抑え、ぼくは
「水割り、ください」
「平気なの?」怪訝な表情。
「いいんです。ください」
うずたかく氷を積み、ウイスキー、ミネラル水が注がれたグラスが
ついと目の前に配された。
「はい、いらっしゃいませ〜」アケミさんは自分のグラスを差し出す。
「ども」グラスを合わせる。コチリと情けない音が響いた。
ウイスキーは初めてだ。なにか日向のような香りを鼻に感じながら口へ注ぐ。
接着剤を薄めたらこんなかんじなのではないかという味に眉根を寄せた。
「あら、いけるじゃない」ぼくの二の腕を張った。
グラスを置きながら、またカウンターのユマに目をやった。
どんな会話なのだろう、男の頬の辺りを指でなぞりながら破顔している。
ぼくの隣にいたユマはあんな表情を見せていたっけ?
なにか遠いものを感じながら目の前のグラスをあおった。
「いけいけ〜」そんなようなことを言って囃し立てるアケミさん。
グラスを干すと、矢継ぎ早に水割りをこしらえグラスを返してよこす。
知らぬ間に新しいボトルが口開けされている。
ぼくは目をつぶってグラスを傾けた。
飲み干して目を開くと視界の隅でユマが霞んで見えた。



気がつくとトイレの床に座りこんでいた。
ドアの向こうからアケミさんの調子の外れた「舟歌」が響いてくる。
わざと深いため息をついてみる。
なにやってんだろう。
鼻腔の奥にチクチクする痛みがある。のども痛む。
「なにやってんだろう」今度は口に出して言ってみた。
見上げると存外に高い天井の蛍光灯が羽虫のような音を立てていた。