どんなときも

富士の裾野の居候。ブログはこんな ここをクリック


                                                                                                                                  • -

「シャンとしなさい」いつもよりことばにやさしさを感じた気がした。



伊勢屋で昼食を摂っていると、めずらしく吉永さんが暖簾をくぐってきた。
「あれ、一人?ここいい?」対面の席を指す。
「あ、どうぞ。もうすぐ済みますから」箸運びを早めながらぼくは応えた。
「いいじゃない、慌てなくたって」穏やかな微笑みをみせる。
「…ですか。実はまだはじめたばかりなんで」進言に甘えた。
ぼくの味噌汁が遅れて運ばれてきたところへ吉永さんは生姜焼き定食を
半ライスで注文した。
「ここのメニューでいちばん効いてるのよ」ニンニクのことだ。
伊勢屋のそれは生姜焼き定食というよりスタミナ定食的である。
そしてなぜか女性からの注文が多い。
吉永さんはぼくの膳を見て「夏バテ?」
「食欲ないんです」味噌田楽の単品を食べているぼく。
「というより元気でないわよ、そんなんじゃ」
「はあ」
食欲がないというよりも食べ物を受け付けないのだ…同じか?
こんにゃくみたいな主張のない食べ物をつるりと飲み込むのがせいぜい。
「シャンとしなさい」軽く眉をつり上げる。
ぼくは箸を止めた。懐かしい響きだった。
「昔っからそればっかり言われてますね、ぼく」
「え?なに?」
「『シャンとしなさい』っての」
「そう?憶えてないなぁ」特に気に留めた様子もない吉永さんだった。



吉永さんのことは以前にも書いた。
老花繚乱の経理課にあって、新人の菊池さんと二人でマドンナの両翼をなす。
知的で物腰穏やか、明晰で闊達、それでいて一本気で酒もめっぽう強い。
件のニンニク好きは相変わらずだ。これさえなければ何時間話をしていても
ちっとも飽きないほど会話も楽しい。
ぼくの部署と経理では平素それほど接触はないのだが、
吉永さんとこんなふうに話せるようになったのは新人研修の時からだ。
研修のプログラムはほとんどすべてがレクチャーなわけだが、
2時間に1回ぐらいの割合で息抜きのレクリエーションが用意されていた。
伝言ゲームやあいうえお作文など、努めて本気にならなければ
馬鹿馬鹿しいようなことに余興の趣で参加させられる。
そんな際はアシスタント的な役回りを総務や経理の先輩達が交代で
担当していた。
そんなレクリエーションの一つで「天野ジャック」というゲームがあり
その時のぼくの担当が吉永さんだった。
「天野ジャック」というのは男女1組を最低単位として、交互に
相手の好感を持てる部分に対しては「あなたの○○がきらいです」といい、
嫌悪感を抱く部分に対しては「あなたの●●が好きです」と、つまり
思っていることと逆の感情をことばで表現するゲームである。
単純だと思うであろうが、これがなかなかスリリングなのだ。
一回の発言に与えられる時間は5秒間。ゲーム開始から5秒間の間隔で
ベルが鳴らされ、その間に「あなたの…」を伝えなければならない。
同期入社の男女比が等しくなかったので、あぶれたぼくの対戦相手に
補充されたのが吉永さんだった。その場の流れで対戦相手になった、
初対面の人にたとえ天の邪鬼であれ、好き・きらいと言うことばを
口にするのは戸惑わないはずがない。
ましてやきれいな女性ということになれば。冷静に対処できるはずがない。
緊張で胸の高鳴りを抑え切れぬままゲーム開始。
目を泳がせてしまって映るものをとにかく取り上げて
「あなたの…手が…」なんだっけ?なんて言うんだっけ「…あります」
「ちがうでしょ!」ぴしゃりと意見する吉永さん。
「す、すいません」
吉永さんの番で「あなたのネクタイのセンスがきらいです」
「え!ダサイっすか?」どぎまぎして聞き返すぼく。
「『天の邪鬼』でしょ!」
「ああ、あっそうか」ぼくの番だ
「えっと、あなたの…耳が…」どうしよう「…あります」
「ありますよ!そりゃ」苦笑する吉永さん。
「あなたの靴の汚れが好きです」そつなくこなす。
「ああ、今朝慌ててたから磨けなくて」不必要な弁解をする。
「次よ」
「あ、えっと。あなたの…あなたの…」詰まってしまう
「あなたのが、イヤです」
「わ・た・し・の、なにですか?」あきれる吉永さん。
対戦相手として吉永さんが目の前に来てからずっと気になっていたことだ。
「あなたの…ニオイ」
吉永さんは一瞬固まり、そして快活に笑った。
「やっと正直になれましたね」
「え?あ、いや」
「もっと落ちついて」真っ直ぐにぼくを見る。
「『天野ジャック』なんだから『キライ』じゃなくて『好き』でしょ」
「…すいません」
「はい、も一度」
「…好きです」
「シャンとしなさい」たしなめられた。母親のように。



しばらくの間は後遺症で吉永さんに会うたび不必要に萎縮して
歯切れの悪いことになっていたが、そのたびに吉永さんは
「シャンとしなさい」と、ぼくの肩をぱしりと叩いた。
まるで座禅の警策のように一撃一撃が気持ちに響いた。
そんなこともあって、それからは吉永さんに会うたび
シャンとしなきゃとこころのどこかで気を入れ直してきた。
いまでは冗談や減らず口も含めて、普通に話せるようになったが
やはりその存在にまぶしいものを感じずにはいられない。
久しぶりに会った吉永さんに、静謐な中にも真っ直ぐな強さのようなものを
感じて、些細なことに囚われていたこのところの自分を小さく感じた。
伊勢屋の親爺に焼き海苔をサービスさせると、生姜焼きをのせて
飯ごと海苔で巻き込んで、吉永さんはうまそうに頬張る。
きれいな人なのに、そういうことする。
気の力なのかニンニクパワーなのか。吉永さんのオーラを感じる。
なんだかうれしくて、まじまじとその姿を見ているぼくに気づき
「きみもさぁ、白いご飯たんと食べて」一息おいてから
「シャンとしなさい」