ボーイの季節(前編)

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「体を動かす」ということが不得手なんである。
不得手なんて言うとそちらの方面に憧憬があるように思われがちであるが、
決してそうではなく、たんなるものぐさなだけなのだが。
例えば「ダンス」に感銘を受けると、その反応は得てして「同化」の方向性を
たどり、つまり「振りをマスターする」といったような行動に走るのは
自明のこと。「ミニモニ。」に奇声を上げる子どもは、やはり振りをまねるし、
MAXの振りを覚えている者はクラスの人気者であった。
考えてみると幼少の頃からぼくにはこの傾向がなかったと気付く。年を食って
身体が動かなくなってきたという理由でものぐさになったのではないようだ。
「生まれつき動くのを嫌う人」
そういうこともあるんだろうけれど、なんだかひどく駄目なかんじがする。



学生時代、自主制作映画のサークルに在籍していた。大学の映画制作サークルの
活動といえば、自らが主催する上映会が年に1回、学園祭時に研究発表的に
上映会を催すぐらいで、後は年中自由活動である。
その中にあって志のある者は自己負担で作品を自主制作し、それ以外の者は
いるんだかいないんだか分からない者、ひたすらバイトにいそしむ者、
他人の創作活動にやたら協力的ではあるが自分では何もしない者など。
とにかく自由であった。
元来なにかを始めると同時に複数のことができない性格で、その頃のぼくは
この部にあって志のある者の類に属し、ひたすら映画制作し、また他人の
作品にも手を出してうるさがられるような存在であった。
今では全く信じられないのだが、そうだったのだ。



部内で最高学年になったときぼくは部長の任を受けた。
その年の学園祭。女子のみで構成される『創作ダンス部』というサークルの
手伝いをすることになった。
手伝いというからには我々が舞台で舞踊を披露するということではなく、
裏方というか放送業界でいう「技術さん」のような立場である。
ステージ照明のテーブルタップだの延長コードだの、そんなものの管理を
やらされていたわけだ。大昔、映研部員の先達がそんな機材を提供してしまった
という悪しき伝統のとばっちりで、幾星霜たったぼくらの時代でも
「この辺のことは映研さんだから」と、何の疑問も持たない先方から
お呼びがかかるのだった。
で、ダンスである。
正直なところ自分は「ダンス」と「演劇」には否定の態度をとっている。
ひいては「生演奏」にまでそれは及ぶのだが、実演するということにひどく
胡散臭さを感じていたし必要性を見いだせないというのが理由である。
カタルシスをもたらすという側面から見れば大きな意義を持つが、
それは他者の演じるものから得るものではなく、自らが興じてこそ達成される
ものであり、その点では得心がいくのだが、とにかく自分の中にそれに
響きあうものが感じられなかったのだ。
そんな自分なので当初、創作ダンス部の活動には何の興味も持てなかった。

<後編へ続く>