ため息のマイナーコード

帰り支度をして社を出ると今にも泣き出しそうな空模様だった。
ここのところ、スコールと見まがうほど烈しい夕立に
臍をかんでいたので、退社後とはいえ侮れない。
昼に「鮪まつり」の貼り紙を見つけて晩飯は伊勢屋で刺身定食をと
考えていたが、こんなところで長っ尻になって雨に足止めを食うのも
残念だ。しかし伊勢屋の親爺が馴染みにはカマ焼きを振る舞うと
言っていたのにも後ろ髪を引かれる。
しばし人生の岐路に立たされたが、ここは雨ざらしになるのを回避する
手だてを選ぶ。三崎産クロマグロよいつの日かまた。
衣服にまとわりつく湿気が一段と不快さを増してきたように感じ、
この選択は間違いではなかったと自らを納め、街の灯を後にした。
自宅最寄り駅まで到着する。ここまで来てしまえば、たとい濡れても
幾ばくかの距離でたかがしれている。
コンビニで弁当でもと思ったが、なにかそんな気がしない。
「『スカーラ』のそばめしは絶品」以前居候が言っていたのを思い出した。
ああいうところのああいう食べ物は縁日のたこ焼きみたいなもので、
冷静になるとちっとも美味いものではなかろうと思うのだが
平素こと食べ物について讃辞を述べない居候が言うのだからと期待した。
きびすを返し駅向こうに向かった。



いつ見ても乾くことのないように思える路地に「スカーラ」は
営業中の看板を灯していた。
「こんばんは」重いドアを開ける。先客はいない。従業員二人も
いつも無口なマスターもカウンター奥にいなかった。
「?」意外な展開にちょっと躊躇。
所在なく立ちつくしていると、奥から黄色いTシャツのユマが現れた。
「あ」ぼくを見る。
「ども」ぺこりと会釈。
間があいた。
「あの…」とりつく島を探して「いいすか?」
「え?あ、どぞ」
ぼくはなんとなく定位置になっていたソファに掛けようとして
「いま、誰もいないから」ユマはカウンターに促した。
狭いスツールに腰を下ろす。カウンター奥にまわったユマに
「マスターは?」
「なんか電話で呼ばれて出てくるって。アケミさんはお休みなんです」
そこまで訊いていなかったが、そういってユマはちらりとぼくを見た。
「ふうん」なにか心許なくてぼくは目をそらし店内を見やった。
「忙しくなさそうですね」
「ヒマって言えばいいじゃないですか」ユマは笑った。
「ああ、そうか」ぼくもつられて笑った。
「なんにします?」
「あ、えーと。あのビール」アルコールを注文するのはなにか照れくさかった。
「はい」ユマは気に留める様子もなく冷蔵庫を開ける。
ぼくが飲めないのを忘れているのか。
覚えてるはずもない。一度接客しただけの客のことなど。
ユマの艶やかな髪と時折のぞく、やはり青白い頬を見ていた。
小ぶりのグラスが置かれ、カウンター越しに伸び上がりながら
ユマがビールを注いだ。泡がちでへたくそな注ぎかただ。
「あたしもいただいていいですか?」目配せする。
「え?ああ、どうぞ…」差し出したグラスにぎこちなく注いだ。
ユマ以上にへたくそな注ぎかたになった。
「やん」小さく叫んでこぼれそうになる泡を急いで口で吸った。
オヤジのようなその仕草と、なにより飲めないはずのユマがビールを
強請ったことに違和感を感じた。
「ダメなんじゃなかったですっけ?」変な訊き方になった。
「え?」
「酒」
「ダメじゃないよ。ビール好き。ビールが一番好き」ユマは微笑する。
初めて会ったときはアルコールがダメなので、とぼくとともにウーロン茶を
すすっていたはずだった。客の意向に合わせたんだろうか。
ぼくの手のグラスの中は泡が消えて無様な液体になっている。
なにか目の前の黄色いTシャツのユマが遠く別人に思えた。
カウンター奥から出てユマがこちらに来た。
「あの、食べ物」あわてて言葉が口をついて出た。
「はい…でも」
「あの、アレ」
「あたしお料理できないよ」
「あの、そばめ…え?なに?」ユマが言ってることを聞いてなかった。
「あたし調理するものはできないです」
「…そなんですか?」どうしていいんだかわからなくなる。
「あ、でも」カウンター奥に戻り冷蔵庫を開け
「そばめしなら」冷凍食品の袋を取り出した。
「それ…?」ユマは安堵したような微笑みを浮かべている。
「…じゃ、それで」
こくりと頷くとユマは袋のまま電子レンジに放り込んだ。
「ああ!ちょっとちょっと」慌ててスツールから立ち上がる。
「ん?」不思議そうな顔で振り返るユマ。
ぼくはぶんぶん首を振りながら
「それは、ダメ。やっちゃダメ」



割り箸を出されてしまったので、うまくつかめず食は進まなかった。
訊けばそばめしのオーダーはいつも冷凍食品で対応しているらしい。
このメニューを絶賛した居候をこころの中で罵倒した。
ユマはぼくの隣に座り黙ってビールを飲んでいる。
この間同じ席に座っているのを見かけたときの笑顔はない。
「訊いてもいいですか」米粒と焼きそばの切れ端を箸で追いながら尋ねる。
「なんですか?」ぼくを見る。
「この間、ここにいた…」ユマの真っ直ぐな視線にたじろぐ。
訊かなくていいような気がした。
「はい?」
「いえ、なんでもないです」ユマの方をちらりと見る。
黄色いTシャツの胸に『KNOCK ME』という文字が読めた。
尋ねたいことはたくさんあるけど、訊かない方がいいような気がした。
「もう一本開けますか?」空いた瓶をかざしてぼくに問う。
二杯くらいしか飲んでいないのに顔が熱い。
ユマはかざしたビール瓶を揺らしながらぼくを見ている。
『KNOCK ME』
まだその扉を叩く準備はできていない気がした。
週末には帰省する。