DA.YO.NE

隣の席の山田は端から分かっていたことだが、身悶えするほど羨んだ。
芳ばしい香りが立ち上る鉄板を囲んで宴たけなわである。


川下りクルーズから全員無事に帰還し、後発隊も着衣を着替え興奮も
ひとしきり鎮まったあたりで時計は12時10分前を指していた。
時間潰しのためだったとはいえ、朝食を3時間かそこらほど前に摂った
ばかりなので、まだ空腹を訴えるものはいないのかと思っていたが、
皆一様にバーベキューへの期待に胸膨らんでいるようだ。
というより絶叫に継ぐ絶叫で果てたのどを潤したいという…はっきり言って
ビールが飲みたいという、そういうことだ。
やっと慣れた程度のぼくでさえもすこぶる厳しい陽射しと濃密な息吹を感じる
山間の空気とに囲まれて、正直にビールの爽快感をからだが求めている。
今度こそ、いわゆるゴクゴクプハーッというCMのような飲み方ができそうだ。
近接するバーベキューコーナーへと移動。
注意書きに「飲食物の持ち込み厳禁」をみつけて大量に買い込んできた酒類
持て余すことに気づいた。まぁ致し方がない。
車座の体で鉄板を囲み、とりあえずビールの後各人が思うままに注文する。
食材が届く前にまず乾杯。ゴチゴチとジョッキを合わせ、冷えた液体を我先に
のどの奥へ流し込む。上顎から咽頭、食道を滑り胃へと達するルートが
手に取れるほどビールは冷えている。
あぁ。
なんでかわからないがジョッキを置くと自然に拍手が起こった。
口元に髭状に泡を残して課長は剛胆な笑いを上げる。
キャンペーンガールのようにジョッキを頬に、鈴木シスターズがおどける。
喜結目さんはすでに2杯目をピッチャーから手酌で注いでいる。
不慣れなぼくでも実感する。こんな時はやっぱりビールなんだ。
愛車の助手席に喜結目さんを乗せてのランデブーだけを愉しみに、飲酒を
あきらめてこの場に臨んだ山田であったからこそ、その目論見が韮崎さんに
よって反古にされた今、目の前の宴は恨めしいもの以外なにものでもない。
隣の席の山田は端から分かっていたことだが、身悶えするほど羨んだ。
食材が運ばれてきた。ライオンの給餌かと見紛うほどおびただしい量の肉。
「お肉っ!お肉っ!」朝からそればっかり連呼する欠食レディースが色めく。
11人がかりとはいえ7枚の大皿に盛られた食材は、聞くところによると
30人前近い量に相当するという。
こういう展開なら必ず現れる、いわゆる鉄板奉行は意外なことに黒坂さんであった。
夫人の絶妙なアシストを受け調理の進行管理に余念がない。
「こっちから順に取ってってください」しかし餓鬼のごとき集団は
焼き上がった肉を前に統率不能であった。
半生でも平気で箸を延ばす隣の席の山田をはじめ、皆が貪るように食い進むので、
黒坂奉行の中央集権管理体制は早くも崩壊した。
しかし旨い。たかだか数十分間のラフティングクルーズだったが、
予想を上回る運動量となによりも緊張と興奮が空腹を促進していたようだ。
元来、縁日やキャンプなど野趣溢れる環境下での食事が不得手なぼくだったが、
今日のこれは思わず唸るほど旨かった。
バンガロー風の小屋の中に立ち上る油煙のあいだをぬって、時折吹き込む
山間の風が火照った頬に心地いい。
水面からの照り返しを受けたため短い時間でも日焼けをしたのか、
鼻の頭や頬骨のあたりがひりひりしている。
平素オフィスで見せている冷静な表情の大人たちが、野に放たれた瞬間に
これほど素直な行動に出られるのは、お互いが気の置けない間柄だと
認め合っているに相違ないと思うとなんだか嬉しくなった。
偏食の激しい片柳さんも自前で用意したレモンを駆使しながら箸を進める。
喜結目さんは憚ることなく大きなおくびを上げて課長にたしなめられている。
きっぱり下戸のメガネの山田さんは烏龍茶でも酔客同様の破顔一笑だ。
やるかと大方の予想通り黒坂夫妻は臆面もなく「あーん」を交わしている。
のどに当てないと早いんだと言いながら韮崎さんは4口半でジョッキを干す。
鈴木(姉)は何故か課長のおさんどんに専心している。
鈴木(妹)は子どものように鉄板の周りを徘徊して多面的に箸を延ばす。
ぼくは自分でも意外なほど食もビールも進んだ。焼いた肉がこれほど
ビールに合うとはついぞ知らなかった。また一つ違う世界を垣間見た気がした。
未曾有の量を誇った7枚の大皿もあっという間に平らげられた。
追加の肉とともに焼きそば材料が運ばれると黒坂奉行が再降臨し、秘かに
持ち込んでいたへらを駆使して見事な手さばきを見せた。
黒坂式は醤油と胡椒で下味と刺激を忍ばせた麺を強火を通した肉野菜に合わせて
炒め上げ、仕上げに半熟の目玉焼きを乗せるという念の入りようであった。
夫人がゆで卵を上手に作れたと小躍りする亭主は実は爪を隠した鷹だったのだなと
思うと、こんなところも黒坂さんの優しさなのだろうかとしのばれた。
心ゆくまでバーベキューを堪能し、締めに供されたグレープフルーツは
突き抜けるようにみずみずしく、極めて美味だった。
目元にまで弾け飛ぶ果汁に目をしばたきながら夢中でかぶりついた。
「僕がどんなに君を好きか、君は知らない」へつづく