夢追い酒

居候のブログはこんな ここをクリック


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遡ること約10日前の8月20日、居候は帰ってきた。
わからない。ラフティングツアーから帰ってきたら、いた。
川下り、宴会、温泉でくたくたに疲れていたのも手伝って、取り立てて興味も示さず、
その日はすぐ床についた。丸っきり一言も交わさず。
居候は散らかり放題だった部屋を見かねて片付け、掃除洗濯も済ませていたようだ。
一言ぐらい礼を言っても良さそうなものだったが、とにかく疲れていたので
それも果たせなかった。
これが良くなかったらしい。
ぼくのこの態度を「シカト」と解釈したようで、返す刀で居候もだんまりを決め込んだ。
はじめは気まずい感じもあったが、よくよく考えればぼくが謝ることではないような
気がする。半月近くも放蕩してきた、それも居候の分際に何を気を使う必要があろうか。
そんなあおりで先週一週間は日記を止めていた。
日記を認めようとすると、口惜しいことに居候の挙動を追っている自分に気づかされる。
意地になってシカトの態度を貫いていた。
居候は居候で、帰ってきてからも毎日毎日誰かを訪ねたり、あちこちの催しに参加したりと
人生を楽しむ術に長けているところを見せつけた。
ぼくは居候ばかりを見ているのに、ヤツはぼくのことなどつゆほども気にしている
様子はない。
この時点でぼくの負けである。



ウイークデイはそれでも出社しているので気が紛れる。
帰宅してから翌日出社するまでの数時間をやり過ごせばいい。
これで毎夜飲み明かす課長の日常のような過ごし方でもできれば、帰宅の足も遠のき、
気遣い無用と楽になれようものだがそれも適わず。
そんなふうに一人で悶々とするのにも疲れた金曜日。
よくわからないがぼくから和解を持ち込もうと決めた。
家路を辿る道すがらコンビニでビールをしこたま買い込んだ。
三松精肉店の名物「肉じゃがコロッケ」、青果かわかみの完熟マンゴーと
アボカド、魚吉でさばきたてのカツオ刺、鳥清でハツ塩10串。
居候の好物の商店街グルメを肴に和解の酒を酌み交わそうという魂胆だ。
短期間ではあるがぼくも晩酌につきあえるくらい酒も窘めるようになった。
居候の土産話も聞きたい。ヤツが不在だった期間にぼくの周りで起きた
不細工な出来事も話してやりたい。「スカーラ」のそばめしの件では
一言文句も言っておきたい。
そんなこんな胸弾ませる塩梅で帰宅すると施錠されていた。
ドアを開けても中はもぬけの殻。
最近では外出しても書き置きすら残さない。
両手に抱えた晩餐の用意がひときわ重く感じた。
この数日の自らの馬鹿げた行状の末がこの有様か。
なにか空っぽな気持ちになった。
テーブルにまだ温もりの残る商店街グルメの包みを置いた。
指に食い込んで痛かった大量のビールの袋を置いた。
フウとため息が出る。
ビールを取り出しトップを抜く。ぐいぐいと一息で飲み干してみた。
鼻に抜ける炭酸で目頭が潤む。
ドラマとかならこんな時、自棄を起こして食べ物もビールもその辺に
ぶちまけるのかな?
二本目を抜いて、ぐいぐいと煽る。
長瀞でワイワイ飲んだときはあんなに旨かったのに、ビールってこんなに
苦かったっけ?
三本目を抜いて、でも流し込む勢いは衰えた。
ぼくらはお互いを思うとき、必ずすれ違ってきた気がする。
歩み寄れば疎ましく思い、突き放すと姿を追えぬほど隔たっていく。
小汚いジジイだよ、焦がれてどうするよ。
四本目を抜いた。勢いよく泡が弾けて飲み口から吹きこぼれた。
あーあ、こんな汚してまた怒られるな。
カーペットに染みを広げるビールをぼんやりと見ていた。

上を向いて歩こう

足を伸ばして軽くバタつかせるとゆらりゆらりと水面が揺れる。
腕を伸ばして天を仰げば、まだ強い陽射しが頭上少し傾いた辺りで猛る。
「あああ」思わず声が漏れる。そこここから同じような声が上がる。
浸したタオルで顔を拭い、頭に乗せた。このスタイルはいつから定番なのか。


ラフティング場を後にして移動すること10分ほど。かねてより調べをつけておいた
立ち寄り温泉へ到着。
宴の酔いがしたたかなものもいたので、温泉立ち寄りは物言いがつきそうだったが、
むしろこれ目当てで来た課長やメガネの山田さんの強い主張により、予定通り湯を
浴びることになった。酔いのひとつも回っていない隣の席の山田にとっても
残された最後のイベント。外すわけにはいかない。
町営村営とかのもっといい加減な感じの佇まいを想像していた我々だったが、
宿の清潔さに感心した。いずれいい加減であろうとなんであれ温泉は温泉だが。
露天風呂ももちろんあった。大浴場とはいえない大きさだが、こぢんまりとした
湯船から臨む辺りの景色は、素で見るそれとは異なり、なにか格別の感だ。
半身浴の体でボーっとしていると、眠気のような酔いのような脱力に見舞われてくる。
バカなことでもしでかすかと思っていた山田は存外大人しく、手ぬぐいで顔を拭いて
「フ〜」みたいなため息をついて、まぶたを指で押さえたりしている。
「疲れた?」なんとなく声を掛けてみた。
「ん?いや…」遠くに目をやったまま山田は応える。
「ボデイシャンぷうじゃ、ボデイシャンぷうはないんか」洗い場で課長が怒鳴る。
山田さんはメガネを頭にずらして、岩に首を預けてのんびりしている。
目を覚まさなかったので窓を開放した車においてきた韮崎さんは大丈夫だろうか。
遠く女湯から鈴木シスターズと喜結目さんの「そんなヒロシに騙されて」がきこえる。
日盛りのなかの湯は気分もいいが、もうすでにのぼせているのかも知れない。
麻酔のような意識の鈍磨に任せて目を細めていた。
湯の爆ぜる音がして、山田が縁に腰掛ける。
少し離れて並んだかたちで共に遠くを見やる。
「飲みたかっただろ?」意地悪い訊き方にならないように注意した。
「…まあね」ぼそりと応える。
涼風が吹いて湯気のたゆたいを一瞬崩す。
かましセミの声がひときわ強まる。
「誘いなよ、飲みに」心にもないことなのについ口をついた。
「ん?」
「喜結目さんさ。俺もいた方がいいならつきあうけど」
隣の席の山田は黙っている。
「ガンガンいきなよ」変なことばだ。励ましのつもりだった。
山田を見る。うーんと大きな伸びをすると
「まずさ、酒強くなんなきゃな。俺」笑みを含んでそういった。
「おまえ、嬉しいと先走って潰れちゃうんだもん」
「まったくだ」
ぼくらは笑った。
山田はバシャリと湯を蹴り上げる。大きな放物線を描いて水玉が辺りに落ちる。
ぼくも蹴り上げる。山田もバタアシの体で蹴り上げる。
大きな水玉が辺り一面に飛び散り、端でくつろいでいたメガネの山田さんの顔に落ちて、
なにごとかと顔を上げる。
「こら!子どもみたいなことすなっ」課長に怒鳴られる。
ぼくと山田は笑いながらバタアシを止めなかった。

僕がどんなに君を好きか、君は知らない

宴の後はシエスタである。
後片付けすらも共同作業の新婚黒坂夫妻に面倒を任せ、皆食後の休息を貪る。
陸に上がったセイウチのように弛緩して横たわった韮崎さん。
その腹に頭を預け、赤べこのように上下に揺れる課長。
本来ならこのタイミングで真っ先に寝入るはずの隣の席の山田は、
アルコールの誘いがないため正気を保っている。
逆にぼくは勢いに任せてのどを潤した分、まどろみを伴う高揚感に浸っていた。
女性陣は集まってマネ作「草の上の昼食」よろしく、木陰にくつろぎながら
談笑に興じている。
メガネの山田さんがこっそり買ってきたガリガリ君をもらって
ベンチに並んで腰を下ろして囓る。
こめかみに来る痺れと共に冷却されていく火照りを感じながら遠くを見つめる。
混まないうちに出なきゃと、山田さんはこころにもないことを言う。
足を投げ出した姿は、あと2時間はこのままでいたいと訴えている。
緑の息吹をはらんだ風が過ぎていく。
ほんの一瞬でも煩わしさから解き放たれて、空白が意識を浸食していく。
離れて隣の山田がくゆらすたばこの煙がたなびいて催眠術のようだ。
仏像のような半眼になっていたであろう賦抜けたぼくの肩を喜結目さんが叩く。
日焼けしたのか酔いが回っているのか、めずらしく頬が紅潮している。
「ちょっといい?」
訳も分からず立ち上がらされ、喜結目さんは後に続けと促す。
ノースリーブの細い肩を眺めながらぼくは喜結目さんについていった。



「最近、避けてるでしょ」
山道を少し入った辺りで喜結目さんは低い声で問うた。
なんのことか分からず黙っていると、喜結目さんは続ける。
「みんなに話したんじゃないの?」
「?」
「エンケイのこと」
エンケイ…エンケイ…。
「ハゲ?」喜結目さんは拳を振り上げて殴るマネをする。
「大きな声で言わないでよ」ぼくは慌てて口を押さえる。
喜結目さんはフウっとため息をつく。
「気取った女がハゲだって知ったら黙ってらんないよね」
気取ってるんだと、変なところで感心してしまった。
「山田さんなんかと笑いものにしてるんでしょ?」
ぼくは無言で首を振る。
「陰でコソコソいろいろ言ってるんでしょ?」
ぼくは無言で首を振る。
「山田さんがあたしを見る目がなんかヘンだもの」
ぼくは無言で首を振る。
喜結目さんはプイとむこうを向いて黙り込んだ。
ぼくは無言で首を振る。なにかとても残念な気分だ。
「どうしてそう思っちゃったかな」喜結目さんは動かない。
「誰にもなんにも言ってないけど」
「うそ」
「うそじゃないよ。言う理由がないし」
喜結目さんはいつもの射るような視線で振り向いた。
「だって、おかしいじゃない?山田さんの態度」
「山田が?」思い当たる節がない。
喜結目さんの談によれば、最近隣の席の山田は以前のようにバカ陽気に
飲みに誘うことをせず、なにやら恐る恐る様子を窺うように
「頭、痛いの?」とか「頭痛は肩こりが原因なこともあるよ」など、
とかく頭に関する気遣いを見せているらしい。
別段、頭痛持ちであるわけでもない喜結目さんにしてみれば、
頭を気遣われるイコールハゲをからかっていると解釈してしまったようだ。
ぼくは無言で首を振る。
「ちがうよ」
「なによ?」
「喜結目さんの癖だよ」
「癖?」
「癖っていうか」
本人は気づいていないのかも知れない。
ここのところ喜結目さんは、恐らく無意識なのであろうが、
ことあるごとに後ろ頭の辺りを指先で押さえる仕草を繰り返している。
それはぼくも気になっていたことだ。
喜結目さん本人から頭髪の悩みを打ち明けられていたので、そうしてしまう
気持ちはぼくはなんとなく理解できた。
しかし隠された事実を知らない山田の目には、喜結目さんが偏頭痛にでも
苦しんでいるように映ったのだろう。思いを寄せる女性が苦しみを堪えて
職務に従事する姿にこころ痛めたのだろう。
「あいつ、心配してるんだよ」
「……」喜結目さんはうつむいて黙り込んだ。
さわさわと森の木々を揺らして風が通っていった。
「気にするなって言っても無理だろうけど」ぼくはおずおずと声を掛けた。
「気にすると余計ハゲるよ」
今度はマネではなく思いっきりひっぱたかれた。
「上を向いて歩こう」へつづく

DA.YO.NE

隣の席の山田は端から分かっていたことだが、身悶えするほど羨んだ。
芳ばしい香りが立ち上る鉄板を囲んで宴たけなわである。


川下りクルーズから全員無事に帰還し、後発隊も着衣を着替え興奮も
ひとしきり鎮まったあたりで時計は12時10分前を指していた。
時間潰しのためだったとはいえ、朝食を3時間かそこらほど前に摂った
ばかりなので、まだ空腹を訴えるものはいないのかと思っていたが、
皆一様にバーベキューへの期待に胸膨らんでいるようだ。
というより絶叫に継ぐ絶叫で果てたのどを潤したいという…はっきり言って
ビールが飲みたいという、そういうことだ。
やっと慣れた程度のぼくでさえもすこぶる厳しい陽射しと濃密な息吹を感じる
山間の空気とに囲まれて、正直にビールの爽快感をからだが求めている。
今度こそ、いわゆるゴクゴクプハーッというCMのような飲み方ができそうだ。
近接するバーベキューコーナーへと移動。
注意書きに「飲食物の持ち込み厳禁」をみつけて大量に買い込んできた酒類
持て余すことに気づいた。まぁ致し方がない。
車座の体で鉄板を囲み、とりあえずビールの後各人が思うままに注文する。
食材が届く前にまず乾杯。ゴチゴチとジョッキを合わせ、冷えた液体を我先に
のどの奥へ流し込む。上顎から咽頭、食道を滑り胃へと達するルートが
手に取れるほどビールは冷えている。
あぁ。
なんでかわからないがジョッキを置くと自然に拍手が起こった。
口元に髭状に泡を残して課長は剛胆な笑いを上げる。
キャンペーンガールのようにジョッキを頬に、鈴木シスターズがおどける。
喜結目さんはすでに2杯目をピッチャーから手酌で注いでいる。
不慣れなぼくでも実感する。こんな時はやっぱりビールなんだ。
愛車の助手席に喜結目さんを乗せてのランデブーだけを愉しみに、飲酒を
あきらめてこの場に臨んだ山田であったからこそ、その目論見が韮崎さんに
よって反古にされた今、目の前の宴は恨めしいもの以外なにものでもない。
隣の席の山田は端から分かっていたことだが、身悶えするほど羨んだ。
食材が運ばれてきた。ライオンの給餌かと見紛うほどおびただしい量の肉。
「お肉っ!お肉っ!」朝からそればっかり連呼する欠食レディースが色めく。
11人がかりとはいえ7枚の大皿に盛られた食材は、聞くところによると
30人前近い量に相当するという。
こういう展開なら必ず現れる、いわゆる鉄板奉行は意外なことに黒坂さんであった。
夫人の絶妙なアシストを受け調理の進行管理に余念がない。
「こっちから順に取ってってください」しかし餓鬼のごとき集団は
焼き上がった肉を前に統率不能であった。
半生でも平気で箸を延ばす隣の席の山田をはじめ、皆が貪るように食い進むので、
黒坂奉行の中央集権管理体制は早くも崩壊した。
しかし旨い。たかだか数十分間のラフティングクルーズだったが、
予想を上回る運動量となによりも緊張と興奮が空腹を促進していたようだ。
元来、縁日やキャンプなど野趣溢れる環境下での食事が不得手なぼくだったが、
今日のこれは思わず唸るほど旨かった。
バンガロー風の小屋の中に立ち上る油煙のあいだをぬって、時折吹き込む
山間の風が火照った頬に心地いい。
水面からの照り返しを受けたため短い時間でも日焼けをしたのか、
鼻の頭や頬骨のあたりがひりひりしている。
平素オフィスで見せている冷静な表情の大人たちが、野に放たれた瞬間に
これほど素直な行動に出られるのは、お互いが気の置けない間柄だと
認め合っているに相違ないと思うとなんだか嬉しくなった。
偏食の激しい片柳さんも自前で用意したレモンを駆使しながら箸を進める。
喜結目さんは憚ることなく大きなおくびを上げて課長にたしなめられている。
きっぱり下戸のメガネの山田さんは烏龍茶でも酔客同様の破顔一笑だ。
やるかと大方の予想通り黒坂夫妻は臆面もなく「あーん」を交わしている。
のどに当てないと早いんだと言いながら韮崎さんは4口半でジョッキを干す。
鈴木(姉)は何故か課長のおさんどんに専心している。
鈴木(妹)は子どものように鉄板の周りを徘徊して多面的に箸を延ばす。
ぼくは自分でも意外なほど食もビールも進んだ。焼いた肉がこれほど
ビールに合うとはついぞ知らなかった。また一つ違う世界を垣間見た気がした。
未曾有の量を誇った7枚の大皿もあっという間に平らげられた。
追加の肉とともに焼きそば材料が運ばれると黒坂奉行が再降臨し、秘かに
持ち込んでいたへらを駆使して見事な手さばきを見せた。
黒坂式は醤油と胡椒で下味と刺激を忍ばせた麺を強火を通した肉野菜に合わせて
炒め上げ、仕上げに半熟の目玉焼きを乗せるという念の入りようであった。
夫人がゆで卵を上手に作れたと小躍りする亭主は実は爪を隠した鷹だったのだなと
思うと、こんなところも黒坂さんの優しさなのだろうかとしのばれた。
心ゆくまでバーベキューを堪能し、締めに供されたグレープフルーツは
突き抜けるようにみずみずしく、極めて美味だった。
目元にまで弾け飛ぶ果汁に目をしばたきながら夢中でかぶりついた。
「僕がどんなに君を好きか、君は知らない」へつづく

青春狂騒曲

静かに滑り出したのは最初だけだった。
鼻歌混じりで操舵していた山田もほんの2〜3分後には「うおっ!うおっ!」
と情けない声を漏らしながら、バランスを取ることに必死である。
ぼくもちょっとした瀬に揺さぶられただけで、韮崎さん経由の反動を
直接受け、何度も尻が宙に浮く。波頭に跳ね返されてパドルを持つ腕が
顎に脇腹に痛打を見舞う。
絶妙な塩梅でバランスを保っている第2列の鈴木シスターズの無邪気な
はしゃぎ声がうらめしい。ぼくの隣の韮崎さんは完全に目をつぶっているので
瀬の揺れに振り回されるがままだ。大きくよろめいて身体がぶつかると
ボートの外に投げ出されそうになる。
「小滝に入りますよ」ガイドの声が響く。
小滝などと可愛らしい名前のくせに波が泡立つほどの激流と、そこここに
牙をむく段差とで、ややもすると舌を噛みそうになるのを必死で堪える。
「どりゃぁ!うりゃぁ!」最前列から聞こえるのは喜結目さんの叫びだ。
小滝を抜けてボート全体が大きく撓り、軽く跳ね上がるたびに喜結目さんは
歓声を上げる。この乗組員の中でもっとも肝が座っているのは喜結目さんの
ようだった。
パドルで波間をかき回していることにどれほどの意味があるのかと思うほど
さながらぼくらのボートは流れに弄ばれ漂流するように滑っていく。
脳裏をかすめるのは自己制御不能流しそうめんの悲しみである。
「もう少しで抜けますからね」再びガイドの声が声を掛ける。
そのことばを聞いて間もなく、幅員の広い緩やかな流れに滑り込んだ。
川面に山間の景色を映すほどの静かな流れに身を任せるボートは、やっと
乗組員のパドルによって操縦されることを望んだ。
「キャッチ!」「ロォォ」がんばっていきまっしょいよろしく、ぼくらは
川面を渡る風を受けながら操舵する。辺りの萌え上がる深緑を愉しむ余裕も
少しばかりこころに留めながら、ゆっくりと水面を掻き進んでいく。
乗組員全員の息が合ってくると、ふと見下ろした水面を滑るスピードは存外
速いことがわかる。急流に弄ばれるのではなく自らの手で進路を決めて
移動できていることがそこはかとなく誇りに感じて、パドルを握る手にも
力がみなぎる。
「もうすぐ『くつなし』。ラストイベントですよ」ガイドのやけに嬉しそうな声。
見ると進路の左右に巨大な岩が点在する。その合間を縫ってコースは続く。
ゴム製のボートは笹舟のように波に煽られるまま岩にぶつかり跳ね返されを
繰り返す。なにかピンボールの玉になったような塩梅だ。
途中、岩と岩に真横に挟まってしまい、パドルで岩面を突き押してコースへ戻った。
岩と岩の間隙を縫って進む折、涙が出るほど肘を痛打した。
気恥ずかしかった蛍光色のヘルメットもさもありなんという感じだった。
激動の数分間を乗り越えてぼくらは川旅のゴールに到達した。
岸に降り立ちこわばった表情をどうにか解して笑顔を見せようという努力が
必要だったのは情けないことに全員男子で、女性陣は水飛沫に濡れそぼった髪を
気にする程度で、皆歓声を上げて興奮を反芻していた。
韮崎さんは歯を食いしばったあおりで切ってしまったと口角から血を滴らせていた。
『くつなし』の岩場で尻を何度も強打した山田は涙ぐみながら腰をさする。
ぼくはぼくで自ら握っているパドルの手許が顎に命中し、紫色に腫れている。
嬉々としている女性陣を後目に、ぼくら週末ロビンソンクルーソー
濡れた着衣を引きずりながら、肩を落として休憩所へ向かった。
衣服を着替えてひと心地ついていると、後発のチームが到着した。
お達者くらぶご一行はさぞかしびしょ濡れで…と、ほくそ笑んでいたが、
存外被害を被った様子もなく、ゴルフ場で見せるような快活な笑顔で戻ってきた。
聞けば課長の見事なパドル裁きで終始安定かつ快適な川下りを体験してきたようだ。
風呂上がりに近い濡れ方のぼくらの髪を見て、しきりに課長は「修練が足らん」を
連発していた。


痛みを伴う苦行の川下りではあったが、平素では味わうことのない川風の
涼感や川面に映る景色の雄大さを堪能したとともに、これまた平素では
知ることのなかった、女性陣の肝の座りようなどを垣間見ることができて
これはこれで貴重な体験であった。
「DA.YO.NE」へつづく

冒険者たち

関越自動車道は思いの外スムーズな流れを見せていて、混雑を予想の上
午前6時に出発したぼくらは快適な移動だった。
「レモンのハチミツ漬け」甘酸っぱい香りを放つタッパを片柳さんが差し出す。
「ぼく車酔いしませんけどね」相伴に預かり、口をすぼめながら応えた。
「こういう時はこういうものがいいのよ」
「おまえは野球部のマネージャーか」助手席で課長が突っ込む。
「次、寄ります?トイレとか平気ですか?」ハンドルを握る山田さんが問う。
「五平餅!」「フランクフルト!」鈴木シスターズが歓声を上げる。
「おまえら食ってばっかだな」課長が呆れる。


なんとなく盛り上がりだけで急遽企画した催しだったが、黒坂夫人も含めて
参加者11名の大所帯になった。
無難な選択として午前6時に会社前に集合し、11名を3台に配車した。
隣の席の山田は虎視眈々と木結目さんの同乗を画策し、その栄誉を手にした。
黒坂さんは16歳の新妻同伴でマイカーのオデッセイを提供しての参加
だったが、ここに同乗するのは躊躇われ、新婚夫婦だけで同行するよう気を遣った。
ホントは新婚夫婦相和しの空間で中てられたくないだけだったが。
隣の席の山田は木結目さん以外の同乗を拒否する構えを見せたが、
メガネの山田さんのエルグランドが8人乗りとはいえ、巨漢・韮崎さんの収容
までは無理と判断され、山田の野望は費えたのであった。
かようなことで、1号山田車には運転手山田さん、課長、鈴木シスターズ、
片柳さん、ぼくの6名。2号山田車には隣の席の山田、木結目さん、韮崎さん。
3号黒坂車には新婚黒坂夫妻という配車になった。
ぼくらは2号車を棚ぼたラブワゴンと呼んで注目していたが、韮崎さんという
強力な刺客を送り込んだことで山田の暴走は回避できるだろうと案じていた。


道中あちらこちらに寄り道したが、結局現地へは8時前に到着してしまった。
車のドアを開けるとけたたましい蝉の音と蒸すような山間の空気に包まれる。
都心からそれほど遠くないこんな場所でも空気の濃さが違う気がした。
「ラフティング、9時半からなんですよね」メガネの山田さんが案内を見る。
「なんか事前講習もあるんでしょ?」
黒坂さんと課長らが剰余時間の解消を画策している。
「韮崎さん!何で助手席座っちゃうのよ」隣の席の山田が憤慨し、詰め寄られた
韮崎さんはあうあう言っている。
木結目さんは鈴木シスターズと木陰で「お肉お肉」とはしゃぐ。
「結構蒸すわね」最後に車から下りてきた片柳さんは紫外線を気にしてか、
大判のスカーフを頭から被って顔に巻き付け目元だけを覗かせた出で立ちで、
さながらイスラムの女性の様相である。
「アルカイーダか、おまえは」課長が呆れる。
亭主のTシャツの裾を掴んだまま黒坂夫人もケタケタ笑っている。
「さーて、どうしましょう?時間余っちゃった」メガネの山田さんが問う。
皆一様に考え込んで、とりあえず朝食でも摂るかということになり、駅の方なら
ファミレスもあろうということで、一同やけに素直に車中の人に戻った。


ガストで小一時間潰し、途中に見つけたコンビニで軽く買い出しをして再び
ラフティング場へ戻ると9時半ぎりぎりだった。
なにをするにも間の悪い一行である。
ラフティングボートは7人乗船ということなのでオーバー30歳に黒坂夫人を加えた
チームとアンダー30チームに別れた。7月生まれの隣の席の山田が30歳に達している
ことはここでは伏せておいた。
合同で安全講習を受け、救命具等を装着して、今度はチームに別れて陸上での
操舵練習などを経ていよいよラフティングボートへ乗船する。
ラフティングボートといっても黄色の、一般的によく見る救援隊が乗っている
ようなゴムボートで、乗ってみると相当頑丈な感じであるが所詮ゴムボートは
ゴムボートで。なにが言いたいかというとつまり、韮崎さんの配置をどうすべきかと
いうことだった。左右どちらかのサイドでパドルを持たせた場合、そちらに
重心が傾いて不安定極まりないことになる。
スタッフの方の話では100kg前後だったら大丈夫とのことであるが。
誰もが口に出しはしなかったが、不安は各人のこころを支配していた。
むしろ他の誰よりも韮崎さん本人がもっとも怖がっていた。
いざ、ボートに乗り込む。山田と喜結目さんを先頭に鈴木シスターズが2列目、
3列目にぼくと韮崎さんが並んだ。あからさまに韮崎サイドにボート全体が傾いている。
「大丈夫なんですか?これ」山田がバランスを失いながらラフティングガイドの
スタッフに問う。
「大丈夫でーす」最後尾から声が上がる。ホントに?
ガイドの合図を受けてぼくらのボートは静かに渓流へと滑り出した。
「青春狂騒曲」につづく

みんなのうた

夏期休暇を終え課員全員が揃って平常業務に戻ったオフィスであるが、
盆明けの緩やかな動きの中にあって、電話の鳴ることも少なく
各人の仕事もあっさり片づいてしまった。
金曜も17時頃になるとオフィス内は談笑の声止まずの体だった。
夏休み気分が抜けないと意欲は遊興娯楽の方面に傾きがちである。
平素では全く考えられない、一致団結してなにか一つことにあたろうという
機運がにわかに課員たちのあいだで高まった。
「週末、みんなでどっか行こうよ」2005年の夏を棒に振った隣の席の山田が
まず気勢を上げた。
「海だ!海、行こ」その眼は喜結目さんを捕らえてはなさない。
「グアム行ったばっかじゃん?日本の海なんか興ざめじゃないの?」
事情を熟知しているぼくは意地悪な意見を山田にぶつける。
「冷房の効いたところで、なんかってのはダメなんですかね」
顎の汗を拭いながら韮崎さんは半ば懇願の口調だ。
「なにゆうてんねん。あっついとこであっついことするからええんやんか」
こういうことになると人一倍テンションを上げる課長が意見した。
「わたし、陽射しの下に二時間以上いたら溶けてしまいますぅ」
珍しく快打を放った韮崎さんの発言に一堂は声を上げて笑った。
「女性陣、水着はタンキニ、パレオは禁止よ」調子に乗った隣の席の山田に
女性課員から一斉にセクハラコールが上がる。
「なんやその『タンキニ』っちゅうのは?」
「『その男、タンキニつき』」
「シスアド養成タンキニ集中講座」
くだらないのにこんなときはなんだか可笑しい。
秩父だったか長瀞だったかでラフティングできるって聞いたな」
メガネを拭きながら山田さんが別案を挙げる。
「なんや?豚の角煮か?」ボケ倒す課長。
「角煮ちゃいますがな」隣の席の山田が調子を合わせる。
「わかっとるわい、アホ。川下りだろ?ゴンドラで」
「『旅情』じゃないんだから。ゴンドラじゃないですよ」
「なんかアレ、バナナボートみたいなヤツ」手振りを交えて隣の席の山田。
「渓流下りでしょ?涼しそう。いいな」片柳さんも賛同の意を告げる。
「片柳。おまえ、腹ん中空っぽだと酔ったときつらいぞ」偏食家の片柳さんを
つかまえて、課長は大きなお世話を焼いてアカンベをもらう。
「あっちの方ならオートキャンプ場もありますよねぇ?」黒坂さんが問う。
「いいですねぇ!肉焼きましょーよ」喜結目さんが歓声を上げる。
「コラ!カワイイ顔して『肉焼く』ゆうな。『バーベ・きゅう』言え」
「課長、アクセントが違います」余計なツッコミでどつかれる隣の席の山田。
「お肉お肉ぅ」喜結目さんのこころは決まったも同然だ。
「うちにツーバーナーのコンロあるから、釜戸でなくても大丈夫だよ」
新妻をもらってからなにかとアウトドア傾向のある黒坂さんが胸を叩く。
「場所取れるかな?今日の明日で」韮崎さんがまず不安要素を解消にかかる。
「オートキャンプ場でなくても、河原のどっかでできんじゃないですか?」
「宿泊じゃないし、空きはあるみたいだぞ」黒坂さんがネットで調べている。
「近所に温泉もあるやんか」課長が目を細める。
「決まりですかね?」山田がまとめにはいる。
「よっしゃ!納涼ラフティング&バーベ・きゅう大会だ」課長が催しに冠した。
「バーベキュー!」その場にいた一同が声を合わせて課長に突っ込んだ。


かくして我々一同は週末にラフティングに興じ、バーベキューを拵えるという、
従前では考えられないイベントを催すことになった。
参加者は課長、山田さん、黒坂さん、韮崎さん、隣の席の山田、ぼく、
女性陣は片柳さん、喜結目さん、鈴木シスターズと課のほぼ全員。
隣の席の山田のワゴンと黒坂さん、山田さんのワンボックスを駆って
現地へ向かうことになる。
居候のことが頭に浮かんだ。誘ったら奴も来るだろうか。もっとも明日までに
帰ってくればの話だが。
事前の準備や買い出しの分担などでひとしきり賑わってるところへ
「うちの奥さんも連れてっていいかな?」黒坂さんが希望した。
ぼくと隣の席の山田は一瞬ビクッとしたが
「おやつは300円までだぞ」
課長のからかいに皆、声を上げて笑った。